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第4話 私は離婚届に名前を書いた

last update publish date: 2026-10-02 20:39:23

第4話 私は離婚届に名前を書いた

その日の夕方、沙耶はいつもより早く風呂に入り、髪を乾かしてからリビングへ戻った。

夕食は作らなかった。

冷蔵庫には食材がある。米もあるし、昨日買った魚も、野菜も十分残っている。それでも今日は、遼一の帰宅時間を逆算して料理を始める気にはなれなかった。

七年間、よほど具合の悪い日を除けば、遼一が家で食べると分かっている夜には何かしら用意してきた。

それは義務だと思っていたわけではない。

仕事から戻ってきた夫が、温かい食事を前にして少しだけ肩の力を抜く。その顔を見ることが好きだった。

けれど一度「妻をやめるかもしれない」と考えてしまうと、自分が毎日してきたことの一つ一つが、急に輪郭を持ち始める。

献立を考えること。

買い物をすること。

遼一が会食続きなら胃に優しいものを選ぶこと。

忙しい時期には帰宅が遅くても食べやすいように、小分けにして冷蔵庫へ入れておくこと。

どれも小さなことだった。

金額に換算するようなものではないし、沙耶自身もそんなことを考えたことはなかった。

ただ、誰かのために毎日続けるということは、それなりに時間を使い、その人へ気持ちを向け続けるということだったのだ。

沙耶はキッチンカウンターの上に一枚の紙を置いた。

離婚届だった。

昼過ぎ、一人で区役所まで行ってもらってきた。

窓口の職員は何も尋ねなかった。当たり前だ。毎日のように誰かが婚姻届を受け取り、誰かが離婚届を持ち帰る場所なのだろう。

沙耶にとって人生を左右する一枚でも、社会の中では何千枚、何万枚と存在する書類の一つにすぎない。

その平凡さが、妙に救いになった。

世界が終わるわけではない。

結婚が終わるだけだ。

午後七時を少し過ぎた頃、玄関が開いた。

遼一は帰宅してすぐ、いつものように「ただいま」と言った。

沙耶もリビングから「おかえり」と返した。

数秒後、遼一が入ってくる。

テーブルの上に料理がないことに気づき、次にキッチンカウンターに置かれた紙へ目を向けた。

表情が変わった。

「……それ」

「離婚届」

「見れば分かる」

遼一は鞄をソファの横へ置き、ジャケットを脱いだ。

「もう取ってきたのか」

「今日、役所へ行ってきたから」

「早いな」

その言葉が、沙耶の胸に小さく引っかかった。

早い。

半年間不倫し、二か月前から離婚を考え、昨夜は愛人まで連れてきた男に言われると、少し不思議な言葉だった。

「そう?」

沙耶が尋ねると、遼一は言葉を濁した。

「いや……別に悪いって意味じゃない。ただ、今朝はまだ考えるって言ってただろ」

「考えたわ」

「一日で?」

「時間の長さで結論が正しくなるわけじゃないでしょう」

沙耶はダイニングの椅子を引いた。

「座って。話したいことがあるから」

遼一も向かい側へ座った。

昨夜と同じ席だった。

ただし今夜、遼一の隣には莉奈はいない。

そのことに安心した自分を認めるのが、沙耶は少し悔しかった。

どれほど傷つけられても、心というものは一晩で夫を他人にはできないらしい。

「結論から言うね」

沙耶は離婚届に手を置いた。

「私、離婚する」

遼一は何も言わなかった。

驚いているようには見えなかった。

自分から求めた答えなのだから当然だろう。

それでも沙耶は、ほんのわずかに胸が痛んだ。

どこかで期待していたのかもしれない。

遼一が「本当にいいのか」と聞いてくれることを。

あるいは一瞬でも迷うことを。

けれど、そんな期待を持つ自分を沙耶はもう責めなかった。

七年も夫婦だった。

今日決めたからといって、今日から何も感じなくなれるはずはない。

遼一がゆっくり息を吐いた。

「……そうか」

たったそれだけだった。

沙耶は唇の内側を軽く噛んでから、話を続けた。

「ただし、今すぐ提出するつもりはない」

遼一が眉を寄せる。

「どうして?」

「財産分与もあるし、あなたと葉山さんのことも整理しないといけない。私はこういうことの専門家じゃないから、弁護士にも相談する」

「弁護士?」

遼一の声に明らかな警戒が混じった。

その変化を聞いて、沙耶はかえって冷静になった。

「必要でしょう」

「そこまで大げさにしなくても、二人で話せばいいんじゃないか」

「どうして弁護士を入れると大げさになるの?」

「俺は沙耶に不利な条件を押しつけるつもりなんてない」

「あなたにそのつもりがあるかどうかと、きちんと手続きをすることは別でしょう」

遼一は黙った。

沙耶は続けた。

「私は結婚してから途中で仕事を辞めた。今は自分の収入がない。家や預金、保険、それ以外にも夫婦として確認しなければならないものがあると思う。しかも今回は、不倫が原因の離婚になる」

「……慰謝料を取るつもりか」

「請求できるものなら、請求する」

「俺から?」

「あなたと葉山さんに」

遼一の表情が険しくなった。

「莉奈にも?」

その言い方に、沙耶の胸の内に冷たいものが広がった。

昨夜から何度も感じたことだった。

遼一は沙耶へ申し訳ないと思っている。

それは嘘ではないのだろう。

けれど同時に、莉奈を守りたいとも思っている。

そして何かが衝突したとき、もう夫が守ろうとする相手は自分ではない。

その現実を突きつけられるたび、少しずつ諦めが深くなっていく。

「どうして驚くの?」

「いや、莉奈は……」

「既婚者だと知らなかったの?」

「知ってた」

「なら、請求する権利があるかどうかを専門家に確認する。それだけよ」

「金が欲しいのか?」

遼一が口にしてから、自分でもまずいことを言ったと気づいたらしい。

だが言葉は戻らない。

沙耶は夫を見た。

「今の、本気で言った?」

「悪い。言い方が悪かった」

「言い方だけ?」

「違う。そういう意味じゃなくて……俺が払うのは当然だと思ってる。ただ莉奈まで巻き込むのは――」

沙耶はそこで、初めて少し笑った。

楽しさから出た笑いではない。

七年連れ添った人の考えていることが、あまりにも分かりやすかったからだ。

「巻き込んだ?」

「沙耶」

「葉山さんは何も知らない第三者だった? あなたたち二人が関係を持って、二人で将来を決めて、二人で私の家に来たのよね。それを、私が葉山さんを巻き込むみたいに言わないで」

遼一は視線を逸らした。

「……その通りだ」

「あなたが葉山さんを守りたいのは分かる。でも、そのために私が何も請求しないことを期待するのは違うでしょう」

「期待してるわけじゃない」

「だったら、私が専門家と相談して決める。それでいいわね」

遼一はしばらく答えず、やがて小さく頷いた。

「分かった」

沙耶はそこで一度話を切った。

キッチンに置いた電気ケトルから湯気が上がっている。話を始める前に沸かしたのを忘れていた。

「お茶、飲む?」

尋ねてから、自分でも妙なことを聞いたと思った。

離婚条件を話している夫に、いつもの癖でお茶を勧めている。

遼一も一瞬、変な顔をした。

それから苦笑する。

「もらう」

「何、その顔」

「いや。こういう話をしててもお茶は出るんだなと思って」

「私も今、同じこと思った」

沙耶は立ち上がった。

カップを二つ出してから、手が止まる。

遼一のカップは黒。

沙耶のカップは白。

結婚祝いに友人からもらった揃いのものだった。

昨日から、何を見ても「二人分」でできていることに気づかされる。

カップ。

箸。

歯ブラシ。

枕。

タオル。

暮らしは、婚姻届よりずっと細かなもので夫婦を結びつけている。

沙耶は紅茶を淹れ、遼一の前へ置いた。

「ありがとう」

「どういたしまして」

二人とも、少しだけ疲れたように笑った。

その瞬間、沙耶はまた思った。

嫌いになれれば楽なのに。

遼一を心底憎むことができれば、もっと簡単にこの家を出られるのに。

けれど、昨日まで夫だった人を悪者一色に塗りつぶすことは、沙耶にはできなかった。

それでも離婚する。

愛情が少し残っていることと、一緒に暮らし続けられることは別だった。

沙耶はカップを両手で包みながら口を開いた。

「今日、ずっと考えていたの」

遼一が顔を上げる。

「もしあなたが葉山さんと別れるって言ったら、私はどうするんだろうって」

「……考えたのか」

「うん」

遼一の表情がほんの少し変わった。

その変化が何なのか、沙耶には読み取れなかった。

「別れると言ってくれたら、嬉しいのかもしれない。昨日までなら、きっと嬉しかった。でも、そのあとどうするんだろうって考えたの」

「そのあと?」

「あなたが遅く帰ってくるたびに疑うと思う。スマートフォンが鳴るたびに葉山さんじゃないかと思う。出張だと言われても、本当に出張なのか考える。抱きしめられても、この人は別の女性にも同じことをしたんだと思う」

口にしているうちに、自分が想像した生活があまりにも苦しくて、沙耶はカップを見つめた。

「私はたぶん、許したふりはできる。でも、忘れられない」

遼一は何も言わなかった。

「そのうち、あなたも嫌になると思う。何年経っても疑われて、何かあるたびに昔のことを思い出されて。私はそんな自分になりたくないし、あなたを監視しながら暮らしたくない」

「……そうだな」

「それに」

沙耶は顔を上げた。

「あなたは葉山さんと一緒になりたいんでしょう?」

遼一は少しだけ間を置いた。

「ああ」

その返事は、やはり痛かった。

それでも昨日ほどではない。

傷というものは、一日で治りはしないが、同じ場所を何度も切られれば、どこが一番深いのかくらいは分かるようになる。

「だったら終わりにしましょう」

沙耶は静かに言った。

「私があなたを引き止めても、もう誰も幸せにならない」

遼一が何か言いかけた。

けれど沙耶は先に続けた。

「ただ、一つだけ聞きたい」

「何?」

「私が離婚を受け入れるって言ったら、あなたは安心した?」

遼一の顔から表情が消えた。

簡単には答えられない質問だったらしい。

やがて彼は正直に言った。

「……少しは」

沙耶は目を伏せた。

予想していた答えなのに、胸が締めつけられた。

「そう」

「でも、それだけじゃない」

「分かってる」

「沙耶」

「責めてない。聞きたかっただけ」

遼一が困ったような顔をする。

沙耶はそんな夫を見て、昔から変わらないところもあるのだと思った。

この人は、誰かを傷つけることが平気な人間ではない。

ただ、自分が欲しいものと誰かを傷つけないことが両立しなくなったとき、欲しいものを選んだ。

そして選んだ自分を、完全な悪人だとは思いたくない。

人間として、それほど珍しい弱さではないのだろう。

だからといって、沙耶がその弱さに付き合い続ける理由にはならない。

「それと、もう一つ」

沙耶は話題を変えた。

「しばらく別居したい」

遼一が少し驚いた。

「沙耶が出るのか?」

その言葉に、沙耶は反射的に眉を寄せた。

「どうして私が出る前提なの?」

「あ……いや」

遼一自身も気づいたらしい。

「そうだな。俺が出てもいい」

「今すぐ決めなくてもいいけど、同じ家で今まで通り暮らすのは無理。少なくとも手続きが進むまでは距離を置きたい」

「分かった。ホテルでも取る」

「葉山さんのところへ行くの?」

遼一が黙った。

聞かなければよかった、と一瞬思った。

だが、もう妻として聞いたわけではない。

今後の生活を整理するために聞いたのだと思うことにした。

「それは……まだ決めてない」

「そう」

沙耶は紅茶を一口飲んだ。

ぬるくなり始めていた。

「それなら、今夜はまだここにいて。明日以降どうするかは自分で決めて。ただ、寝室は使わないで」

「ああ」

話すべきことは、まだ山ほどある。

預金。

家。

保険。

家具。

車。

双方の親への説明。

七年という生活は、一枚の離婚届に署名しただけでは終わらない。

それでも今夜は、これ以上話す必要はないと思った。

沙耶はテーブルの端に置いていたボールペンを手に取った。

遼一の視線がその手元へ向かう。

「今、書くのか?」

「うん」

沙耶は離婚届を自分の前へ引き寄せた。

氏名を書く欄を見つめる。

現在の姓は神崎。

離婚すれば、真壁へ戻ることになる。

七年間使ってきた名前だった。

神崎沙耶。

病院でも、宅配便でも、義母からも、ずっとそう呼ばれてきた。

自分で選んだ姓だった。

遼一と家族になるために。

ボールペンの先が紙へ触れる。

最初の一画を書くまで、思った以上に時間がかかった。

「沙耶」

遼一が名前を呼んだ。

沙耶は顔を上げる。

「何?」

遼一は何か言おうとした。

けれど、結局首を振った。

「いや。何でもない」

その態度に少しだけ腹が立ち、それ以上に悲しくなった。

何でもないはずがない。

七年の結婚が終わるところなのだから。

それでも、もう夫の言葉を待つことはやめようと思った。

沙耶は視線を紙へ戻した。

そして、ゆっくりと書いた。

神崎沙耶。

文字を書き終えて印鑑を押す。

朱肉の赤が、白い紙にはっきり残った。

それだけだった。

雷が鳴るわけでも、窓の外の景色が変わるわけでもない。

時計はいつもどおり進み、冷蔵庫は低い音を立て、遼一のスマートフォンには仕事の通知が一件届いた。

人生の大きな決断というものは、もっと劇的なものだと思っていた。

実際には、紙の上へ自分の名前を書くだけだった。

沙耶はペンを置いた。

手は震えていなかった。

「書いたわ」

遼一が離婚届を見た。

どこか信じられないものを見るような顔だった。

自分から求めたはずなのに。

沙耶はその表情を不思議に思ったが、理由を尋ねる気にはならなかった。

「提出するのは、条件を決めてから。勝手に持っていかないでね」

「ああ」

「約束して」

「分かった。勝手には出さない」

沙耶は頷いた。

そして椅子から立ち上がる。

「夕飯、私は外で食べてくる」

「今から?」

「うん」

「誰かと?」

遼一の問いに、沙耶は少し驚いて振り返った。

「一人よ」

「そうか」

「どうして?」

「いや、別に」

沙耶は玄関へ向かった。

靴を履きながら、ふと自分の左手を見る。

そこにはまだ結婚指輪がある。

少し迷ったあと、沙耶は指輪に手をかけた。

昨日は関節に引っかかった。

今日は洗面所でハンドクリームを塗ったばかりだったせいか、ゆっくり回すと指輪は意外なほど簡単に抜けた。

七年間外さなかった輪が、掌の中に収まる。

痛みもなかった。

沙耶はしばらくそれを見つめてから、玄関脇の小さな棚に置いた。

遼一が後ろからその様子を見ていた。

「それ、置いていくのか」

「うん」

「なくならないか?」

こんなときまでそんな心配をする夫に、沙耶は少しだけ笑った。

「この家にいるのは、今のところ私たち二人だけでしょう」

言ってから、自分でおかしなことに気づいた。

もう「私たち二人」という言葉に、以前ほど温かさを感じない。

沙耶は扉を開けた。

秋の夜気が頬に触れる。

「行ってきます」

口から出てしまったいつもの言葉に、自分で驚いた。

遼一も一瞬遅れて答える。

「……行ってらっしゃい」

扉が閉まる直前、沙耶は夫の顔を見た。

昨夜、自分に離婚を求めた男だった。

七年前、本気で愛した男でもあった。

その二つは矛盾せず、どちらも真実だった。

だからこそ、沙耶は思った。

愛していたことまで後悔する必要はない。

ただ、これから先まで愛し続ける義務もない。

エレベーターの扉が閉じる。

鏡張りの壁に、一人で立つ自分が映った。

薬指にはもう何もない。

そこだけ皮膚の色が少し薄く、細い輪の跡が残っていた。

七年分の跡は、一日では消えない。

それでも沙耶は、その手をバッグの中へ隠さなかった。

離婚届に名前を書いた瞬間から、夫を失う準備ではなく、自分の人生を取り戻す準備が始まったのだと、ようやく思えた。

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