LOGINその日の夕方、沙耶はいつもより早く風呂に入り、髪を乾かしてからリビングへ戻った。
夕食は作らなかった。
冷蔵庫には食材がある。米もあるし、昨日買った魚も、野菜も十分残っている。それでも今日は、遼一の帰宅時間を逆算して料理を始める気にはなれなかった。
七年間、よほど具合の悪い日を除けば、遼一が家で食べると分かっている夜には何かしら用意してきた。
それは義務だと思っていたわけではない。
仕事から戻ってきた夫が、温かい食事を前にして少しだけ肩の力を抜く。その顔を見ることが好きだった。
けれど一度「妻をやめるかもしれない」と考えてしまうと、自分が毎日してきたことの一つ一つが、急に輪郭を持ち始める。
献立を考えること。
買い物をすること。
遼一が会食続きなら胃に優しいものを選ぶこと。
忙しい時期には帰宅が遅くても食べやすいように、小分けにして冷蔵庫へ入れておくこと。
どれも小さなことだった。
金額に換算するようなものではないし、沙耶自身もそんなことを考えたことはなかった。
ただ、誰かのために毎日続けるということは、それなりに時間を使い、その人へ気持ちを向け続けるということだったのだ。
沙耶はキッチンカウンターの上に一枚の紙を置いた。
離婚届だった。
昼過ぎ、一人で区役所まで行ってもらってきた。
窓口の職員は何も尋ねなかった。当たり前だ。毎日のように誰かが婚姻届を受け取り、誰かが離婚届を持ち帰る場所なのだろう。
沙耶にとって人生を左右する一枚でも、社会の中では何千枚、何万枚と存在する書類の一つにすぎない。
その平凡さが、妙に救いになった。
世界が終わるわけではない。
結婚が終わるだけだ。
午後七時を少し過ぎた頃、玄関が開いた。
遼一は帰宅してすぐ、いつものように「ただいま」と言った。
沙耶もリビングから「おかえり」と返した。
数秒後、遼一が入ってくる。
テーブルの上に料理がないことに気づき、次にキッチンカウンターに置かれた紙へ目を向けた。
表情が変わった。
「……それ」
「離婚届」
「見れば分かる」
遼一は鞄をソファの横へ置き、ジャケットを脱いだ。
「もう取ってきたのか」
「今日、役所へ行ってきたから」
「早いな」
その言葉が、沙耶の胸に小さく引っかかった。
早い。
半年間不倫し、二か月前から離婚を考え、昨夜は愛人まで連れてきた男に言われると、少し不思議な言葉だった。
「そう?」
沙耶が尋ねると、遼一は言葉を濁した。
「いや……別に悪いって意味じゃない。ただ、今朝はまだ考えるって言ってただろ」
「考えたわ」
「一日で?」
「時間の長さで結論が正しくなるわけじゃないでしょう」
沙耶はダイニングの椅子を引いた。
「座って。話したいことがあるから」
遼一も向かい側へ座った。
昨夜と同じ席だった。
ただし今夜、遼一の隣には莉奈はいない。
そのことに安心した自分を認めるのが、沙耶は少し悔しかった。
どれほど傷つけられても、心というものは一晩で夫を他人にはできないらしい。
「結論から言うね」
沙耶は離婚届に手を置いた。
「私、離婚する」
遼一は何も言わなかった。
驚いているようには見えなかった。
自分から求めた答えなのだから当然だろう。
それでも沙耶は、ほんのわずかに胸が痛んだ。
どこかで期待していたのかもしれない。
遼一が「本当にいいのか」と聞いてくれることを。
あるいは一瞬でも迷うことを。
けれど、そんな期待を持つ自分を沙耶はもう責めなかった。
七年も夫婦だった。
今日決めたからといって、今日から何も感じなくなれるはずはない。
遼一がゆっくり息を吐いた。
「……そうか」
たったそれだけだった。
沙耶は唇の内側を軽く噛んでから、話を続けた。
「ただし、今すぐ提出するつもりはない」
遼一が眉を寄せる。
「どうして?」
「財産分与もあるし、あなたと葉山さんのことも整理しないといけない。私はこういうことの専門家じゃないから、弁護士にも相談する」
「弁護士?」
遼一の声に明らかな警戒が混じった。
その変化を聞いて、沙耶はかえって冷静になった。
「必要でしょう」
「そこまで大げさにしなくても、二人で話せばいいんじゃないか」
「どうして弁護士を入れると大げさになるの?」
「俺は沙耶に不利な条件を押しつけるつもりなんてない」
「あなたにそのつもりがあるかどうかと、きちんと手続きをすることは別でしょう」
遼一は黙った。
沙耶は続けた。
「私は結婚してから途中で仕事を辞めた。今は自分の収入がない。家や預金、保険、それ以外にも夫婦として確認しなければならないものがあると思う。しかも今回は、不倫が原因の離婚になる」
「……慰謝料を取るつもりか」
「請求できるものなら、請求する」
「俺から?」
「あなたと葉山さんに」
遼一の表情が険しくなった。
「莉奈にも?」
その言い方に、沙耶の胸の内に冷たいものが広がった。
昨夜から何度も感じたことだった。
遼一は沙耶へ申し訳ないと思っている。
それは嘘ではないのだろう。
けれど同時に、莉奈を守りたいとも思っている。
そして何かが衝突したとき、もう夫が守ろうとする相手は自分ではない。
その現実を突きつけられるたび、少しずつ諦めが深くなっていく。
「どうして驚くの?」
「いや、莉奈は……」
「既婚者だと知らなかったの?」
「知ってた」
「なら、請求する権利があるかどうかを専門家に確認する。それだけよ」
「金が欲しいのか?」
遼一が口にしてから、自分でもまずいことを言ったと気づいたらしい。
だが言葉は戻らない。
沙耶は夫を見た。
「今の、本気で言った?」
「悪い。言い方が悪かった」
「言い方だけ?」
「違う。そういう意味じゃなくて……俺が払うのは当然だと思ってる。ただ莉奈まで巻き込むのは――」
沙耶はそこで、初めて少し笑った。
楽しさから出た笑いではない。
七年連れ添った人の考えていることが、あまりにも分かりやすかったからだ。
「巻き込んだ?」
「沙耶」
「葉山さんは何も知らない第三者だった? あなたたち二人が関係を持って、二人で将来を決めて、二人で私の家に来たのよね。それを、私が葉山さんを巻き込むみたいに言わないで」
遼一は視線を逸らした。
「……その通りだ」
「あなたが葉山さんを守りたいのは分かる。でも、そのために私が何も請求しないことを期待するのは違うでしょう」
「期待してるわけじゃない」
「だったら、私が専門家と相談して決める。それでいいわね」
遼一はしばらく答えず、やがて小さく頷いた。
「分かった」
沙耶はそこで一度話を切った。
キッチンに置いた電気ケトルから湯気が上がっている。話を始める前に沸かしたのを忘れていた。
「お茶、飲む?」
尋ねてから、自分でも妙なことを聞いたと思った。
離婚条件を話している夫に、いつもの癖でお茶を勧めている。
遼一も一瞬、変な顔をした。
それから苦笑する。
「もらう」
「何、その顔」
「いや。こういう話をしててもお茶は出るんだなと思って」
「私も今、同じこと思った」
沙耶は立ち上がった。
カップを二つ出してから、手が止まる。
遼一のカップは黒。
沙耶のカップは白。
結婚祝いに友人からもらった揃いのものだった。
昨日から、何を見ても「二人分」でできていることに気づかされる。
カップ。
箸。
歯ブラシ。
枕。
タオル。
暮らしは、婚姻届よりずっと細かなもので夫婦を結びつけている。
沙耶は紅茶を淹れ、遼一の前へ置いた。
「ありがとう」
「どういたしまして」
二人とも、少しだけ疲れたように笑った。
その瞬間、沙耶はまた思った。
嫌いになれれば楽なのに。
遼一を心底憎むことができれば、もっと簡単にこの家を出られるのに。
けれど、昨日まで夫だった人を悪者一色に塗りつぶすことは、沙耶にはできなかった。
それでも離婚する。
愛情が少し残っていることと、一緒に暮らし続けられることは別だった。
沙耶はカップを両手で包みながら口を開いた。
「今日、ずっと考えていたの」
遼一が顔を上げる。
「もしあなたが葉山さんと別れるって言ったら、私はどうするんだろうって」
「……考えたのか」
「うん」
遼一の表情がほんの少し変わった。
その変化が何なのか、沙耶には読み取れなかった。
「別れると言ってくれたら、嬉しいのかもしれない。昨日までなら、きっと嬉しかった。でも、そのあとどうするんだろうって考えたの」
「そのあと?」
「あなたが遅く帰ってくるたびに疑うと思う。スマートフォンが鳴るたびに葉山さんじゃないかと思う。出張だと言われても、本当に出張なのか考える。抱きしめられても、この人は別の女性にも同じことをしたんだと思う」
口にしているうちに、自分が想像した生活があまりにも苦しくて、沙耶はカップを見つめた。
「私はたぶん、許したふりはできる。でも、忘れられない」
遼一は何も言わなかった。
「そのうち、あなたも嫌になると思う。何年経っても疑われて、何かあるたびに昔のことを思い出されて。私はそんな自分になりたくないし、あなたを監視しながら暮らしたくない」
「……そうだな」
「それに」
沙耶は顔を上げた。
「あなたは葉山さんと一緒になりたいんでしょう?」
遼一は少しだけ間を置いた。
「ああ」
その返事は、やはり痛かった。
それでも昨日ほどではない。
傷というものは、一日で治りはしないが、同じ場所を何度も切られれば、どこが一番深いのかくらいは分かるようになる。
「だったら終わりにしましょう」
沙耶は静かに言った。
「私があなたを引き止めても、もう誰も幸せにならない」
遼一が何か言いかけた。
けれど沙耶は先に続けた。
「ただ、一つだけ聞きたい」
「何?」
「私が離婚を受け入れるって言ったら、あなたは安心した?」
遼一の顔から表情が消えた。
簡単には答えられない質問だったらしい。
やがて彼は正直に言った。
「……少しは」
沙耶は目を伏せた。
予想していた答えなのに、胸が締めつけられた。
「そう」
「でも、それだけじゃない」
「分かってる」
「沙耶」
「責めてない。聞きたかっただけ」
遼一が困ったような顔をする。
沙耶はそんな夫を見て、昔から変わらないところもあるのだと思った。
この人は、誰かを傷つけることが平気な人間ではない。
ただ、自分が欲しいものと誰かを傷つけないことが両立しなくなったとき、欲しいものを選んだ。
そして選んだ自分を、完全な悪人だとは思いたくない。
人間として、それほど珍しい弱さではないのだろう。
だからといって、沙耶がその弱さに付き合い続ける理由にはならない。
「それと、もう一つ」
沙耶は話題を変えた。
「しばらく別居したい」
遼一が少し驚いた。
「沙耶が出るのか?」
その言葉に、沙耶は反射的に眉を寄せた。
「どうして私が出る前提なの?」
「あ……いや」
遼一自身も気づいたらしい。
「そうだな。俺が出てもいい」
「今すぐ決めなくてもいいけど、同じ家で今まで通り暮らすのは無理。少なくとも手続きが進むまでは距離を置きたい」
「分かった。ホテルでも取る」
「葉山さんのところへ行くの?」
遼一が黙った。
聞かなければよかった、と一瞬思った。
だが、もう妻として聞いたわけではない。
今後の生活を整理するために聞いたのだと思うことにした。
「それは……まだ決めてない」
「そう」
沙耶は紅茶を一口飲んだ。
ぬるくなり始めていた。
「それなら、今夜はまだここにいて。明日以降どうするかは自分で決めて。ただ、寝室は使わないで」
「ああ」
話すべきことは、まだ山ほどある。
預金。
家。
保険。
家具。
車。
双方の親への説明。
七年という生活は、一枚の離婚届に署名しただけでは終わらない。
それでも今夜は、これ以上話す必要はないと思った。
沙耶はテーブルの端に置いていたボールペンを手に取った。
遼一の視線がその手元へ向かう。
「今、書くのか?」
「うん」
沙耶は離婚届を自分の前へ引き寄せた。
氏名を書く欄を見つめる。
現在の姓は神崎。
離婚すれば、真壁へ戻ることになる。
七年間使ってきた名前だった。
神崎沙耶。
病院でも、宅配便でも、義母からも、ずっとそう呼ばれてきた。
自分で選んだ姓だった。
遼一と家族になるために。
ボールペンの先が紙へ触れる。
最初の一画を書くまで、思った以上に時間がかかった。
「沙耶」
遼一が名前を呼んだ。
沙耶は顔を上げる。
「何?」
遼一は何か言おうとした。
けれど、結局首を振った。
「いや。何でもない」
その態度に少しだけ腹が立ち、それ以上に悲しくなった。
何でもないはずがない。
七年の結婚が終わるところなのだから。
それでも、もう夫の言葉を待つことはやめようと思った。
沙耶は視線を紙へ戻した。
そして、ゆっくりと書いた。
神崎沙耶。
文字を書き終えて印鑑を押す。
朱肉の赤が、白い紙にはっきり残った。
それだけだった。
雷が鳴るわけでも、窓の外の景色が変わるわけでもない。
時計はいつもどおり進み、冷蔵庫は低い音を立て、遼一のスマートフォンには仕事の通知が一件届いた。
人生の大きな決断というものは、もっと劇的なものだと思っていた。
実際には、紙の上へ自分の名前を書くだけだった。
沙耶はペンを置いた。
手は震えていなかった。
「書いたわ」
遼一が離婚届を見た。
どこか信じられないものを見るような顔だった。
自分から求めたはずなのに。
沙耶はその表情を不思議に思ったが、理由を尋ねる気にはならなかった。
「提出するのは、条件を決めてから。勝手に持っていかないでね」
「ああ」
「約束して」
「分かった。勝手には出さない」
沙耶は頷いた。
そして椅子から立ち上がる。
「夕飯、私は外で食べてくる」
「今から?」
「うん」
「誰かと?」
遼一の問いに、沙耶は少し驚いて振り返った。
「一人よ」
「そうか」
「どうして?」
「いや、別に」
沙耶は玄関へ向かった。
靴を履きながら、ふと自分の左手を見る。
そこにはまだ結婚指輪がある。
少し迷ったあと、沙耶は指輪に手をかけた。
昨日は関節に引っかかった。
今日は洗面所でハンドクリームを塗ったばかりだったせいか、ゆっくり回すと指輪は意外なほど簡単に抜けた。
七年間外さなかった輪が、掌の中に収まる。
痛みもなかった。
沙耶はしばらくそれを見つめてから、玄関脇の小さな棚に置いた。
遼一が後ろからその様子を見ていた。
「それ、置いていくのか」
「うん」
「なくならないか?」
こんなときまでそんな心配をする夫に、沙耶は少しだけ笑った。
「この家にいるのは、今のところ私たち二人だけでしょう」
言ってから、自分でおかしなことに気づいた。
もう「私たち二人」という言葉に、以前ほど温かさを感じない。
沙耶は扉を開けた。
秋の夜気が頬に触れる。
「行ってきます」
口から出てしまったいつもの言葉に、自分で驚いた。
遼一も一瞬遅れて答える。
「……行ってらっしゃい」
扉が閉まる直前、沙耶は夫の顔を見た。
昨夜、自分に離婚を求めた男だった。
七年前、本気で愛した男でもあった。
その二つは矛盾せず、どちらも真実だった。
だからこそ、沙耶は思った。
愛していたことまで後悔する必要はない。
ただ、これから先まで愛し続ける義務もない。
エレベーターの扉が閉じる。
鏡張りの壁に、一人で立つ自分が映った。
薬指にはもう何もない。
そこだけ皮膚の色が少し薄く、細い輪の跡が残っていた。
七年分の跡は、一日では消えない。
それでも沙耶は、その手をバッグの中へ隠さなかった。
離婚届に名前を書いた瞬間から、夫を失う準備ではなく、自分の人生を取り戻す準備が始まったのだと、ようやく思えた。
第25話 妻に頼らず仕事を回すために、会社を変えなければならなかった翌朝、遼一が出社すると、昨夜自分で追加した一枚の資料が机の上に残っていた。『この商品を、誰のどんな時間に置くのか』見出しだけなら、以前沙耶が作っていた資料とよく似ている。だが、中身はまだ半分しか埋まっていなかった。三十五歳から五十歳を中心とする既存顧客。仕事を終えて帰宅した夜。休日の朝。来客前。自分のために部屋を整えたいとき。贈答用なら、親しい相手の新居祝いや誕生日。いくつか書いてみたものの、どれもどこか商品企画書らしい言葉で、生活の匂いが薄い。遼一は椅子へ腰を下ろし、しばらくその一枚を見つめた。沙耶へ聞けば早い。その考えは昨夜すでに捨てた。ならば会社で作るしかない。問題は、誰に作らせるかではない。どうすれば今後も会社の中で考えられるようになるかだった。午前九時、遼一は秘書へ内線を入れた。「長谷川部長と商品企画の高田課長、それから営業から一人、EC担当から一人。十時に小会議室を押さえてくれ」『広告代理店も呼びますか?』「今日はいい。社内だけでやる」『承知しました』通話を切り、遼一は資料を閉じた。以前なら、各部署から上がってきた情報を自分がまとめ、最後に沙耶へ見せる。それで十分だと思っていた。会社の中で作れない部分を、家庭で補っていたのだ。しかも無料で。その状態を「自分は仕事ができる」と思っていた。認めたくないが、そこはもう認めるしかない。十時。小会議室に集まったのは、マーケティング部長の長谷川、商品企画課長の高田、法人営業の女性課長・野村、EC担当の三十代男性・石井だった。全員、急な招集に少し戸惑っている。遼一は昨夜作った一枚を配った。「今日は広告案を決める会議じゃない」長谷川が資料を見る。「これは?」「新
第24話 元妻がいなくなって初めて、会社の会議が噛み合わなくなった神崎ライフスタイルの新商品発表会まで、残り三週間。午前九時から始まった広告戦略会議は、一時間二十分を過ぎても結論が出ていなかった。遼一は会議室の正面で腕時計を確認し、目の前の資料をもう一度めくった。新商品は、ホテル客室や一般家庭向けに展開する高価格帯のルームフレグランスシリーズだった。香りそのものは悪くない。開発には一年近くかけている。容器のデザインにも金をかけた。大手百貨店二社との商談も進み、自社ECだけでなくホテルのアメニティ展開も視野に入れている。会社としては、今期後半の柱にしたい商品だった。だからこそ、広告で失敗するわけにはいかない。「もう一度整理しましょう」遼一が言うと、広告代理店の担当者がパソコンを操作した。大型モニターへ、三種類のキービジュアルが映る。一つ目は、若い女性モデルを全面に出した華やかな案。二つ目は、白を基調に商品だけを見せる高級感重視の案。三つ目は、ホテルの客室を背景にしたライフスタイル提案型。どれも悪くない。だが、どれも決め手がない。「葉山さんは一案目を推すんですよね」マーケティング部長の長谷川が確認すると、莉奈が頷いた。「はい。SNS広告まで考えるなら、一番止まってもらいやすいです。商品だけの静物だと、高級感は出ても拡散は弱いと思います」「でも既存顧客は四十代以上が中心だ」営業本部長が言う。「若い女性へ振りすぎると、今までのブランドイメージから浮かないか?」「だから今回は新規層を取りにいくんじゃないんですか?」莉奈はすぐに返した。「既存顧客だけ見ていたら市場は広がりません。二十代後半から三十代前半の女性を取るなら、今までと同じ見せ方では駄目だと思います」言っていることは間違っていない。遼一も、当初はその方向を支持していた。しか
第23話 私の企画が、七年ぶりに採用されたホテル・アステリアの改善案を正式に提出する日の朝、沙耶は目覚ましが鳴る十分前に目を覚ました。眠れなかったわけではない。むしろ前夜は珍しく早めに布団へ入った。それでも体のどこかが今日を意識していたらしく、目を開けた瞬間から頭の中に資料の構成が浮かんだ。由香の家へ来てから何度も使ったダイニングテーブルには、昨夜のうちにまとめておいた書類が置いてある。最終案は二十八ページ。最初に考えていたより、ずっと地味な内容になった。大規模改装はしない。若者向けへ一気にブランド転換もしない。新しいレストランを作るわけでも、有名人を呼ぶわけでもない。まず、今いる客を取りこぼさない。宴会、宿泊、レストランを別々のサービスとして売るのではなく、客がホテルを使う目的ごとに案内をつなぐ。法事。同窓会。家族の節目。親を連れた食事。地域へ戻ってきた人が、複数の用事を一か所で済ませられるようにする。そのうえで、現在の常連客から次の世代へ利用をつなげる。派手ではない。しかし今の沙耶には、それが一番アステリアに合っていると思えた。キッチンへ行くと、由香がすでにコーヒーを淹れていた。「おはよう。顔、固いよ」「そんなに?」「面接受けに行ったときより固い」沙耶は冷蔵庫からヨーグルトを出した。「今日は自分で考えたものを採るかどうか決められるから」「面接だって自分を採るか決められてたじゃん」「それとは違うよ」「何が?」沙耶は少し考えた。「面接のときは、私自身が評価されてる感じが強かった。でも今日は、私が考えたものが使えるかどうかを見られるでしょう。だから……」「自分と仕事を分けられる?」由香に先を言われた。沙耶は少し驚いて
第22話 「やっと仕事に戻ったんですね」久世蒼士へ渡す修正版の資料を仕上げたのは、日付が変わる少し前だった。沙耶は最後のページまで見直し、ファイル名をつけて保存した。『ホテル・アステリア現状分析_改訂版』いったん送信画面まで進み、そこで手を止める。今回は相川を通して久世ホールディングスへ送ることになっている。直接蒼士へ連絡するわけではない。それなのに、提出ボタンを押すだけで妙に緊張した。会議の最後に言われた言葉が残っている。――自分で出した結果まで、先回りして小さくする必要はないでしょう。資料を直すとき、その指摘を何度も思い出した。十一室の宿泊予約についても、以前なら「一件のみであり偶然の可能性も高い」と冒頭から予防線を張っていただろう。今回は違う。『試験運用一件目では、宴会付随の宿泊見込みが五室程度から十一室へ増加した。案内経路を整理したことで既存需要を取りこぼしにくくなる可能性が示された。ただし、現時点では一例のため継続検証が必要である』結果は結果として書く。そのうえで限界も書く。誇張もしない。縮めもしない。たったそれだけのことが、沙耶には思った以上に難しかった。「まだ送ってないの?」ソファでテレビを見ていた由香が、画面から目を離さずに言った。「今送る」「十五分前も聞いた」「最終確認してたの」「十二回目?」「今日は八回くらい」「改善したねえ」完全にからかわれている。沙耶は苦笑して送信した。「送った」「お疲れ」「……うん」「何、その顔。公開告白でもした?」「仕事の資料送っただけ」「じゃあ寝な」「そうする」そう言いながら、沙耶はすぐにはパソコンを閉じなかった。送った以上、もう自分の手から離れた。
第21話 七年ぶりに戻った業界で、私は彼と出会った久世ホールディングスとの打ち合わせを二日後に控えた夜、沙耶は資料の一ページ目を十二回目まで直していた。由香のダイニングテーブルにはノートパソコンとホテル・アステリアの資料が広がり、いつの間にか仕事用の場所として定着しつつある。最初は遠慮して毎晩片づけていたが、由香から「朝また全部出すなら端に寄せとけば」と言われて以来、食事のときだけ資料を重ねて椅子の横へ置くようになった。画面に表示されている一文は、前回から変わっていない。『ホテル・アステリアの問題は、魅力がないことではない。すでにある価値が、客の目的に沿ってつながっていないことである。』問題は、その次だった。十一室の宿泊予約が入った。宴会と宿泊の情報共有を変えたことで、少なくとも一件は取りこぼしを減らせた。レストラン利用者への聞き取りでは、若い世代がアステリアを嫌っているというより、「自分が使う場所として思いつかない」という反応が多かった。そこから、『設備別の販売から、利用目的別の提案へ』という方向性までは見えている。だが、それだけでホテルが立て直るとは言えない。「また消した」キッチンから由香の声が飛んできた。沙耶は驚いて振り返った。「見てたの?」「さっきからキーボードの音が、打つ、止まる、消す、打つ、止まる、消す、なの。聞いてるだけで分かる」「怖いな」「何に悩んでるの?」由香はマグカップを二つ持ってきて、一つを沙耶の横へ置いた。中身はコーヒーではなく、温かいほうじ茶だった。「ありがとう」「どういたしまして。それで?」沙耶は画面を見ながら答えた。「明後日の打ち合わせ、相手が大手だから」「久世なんとか?」「久世ホールディングス。ホテルだけじゃなくて、不動産もレストランもやってる。昔から業界では有名だった」「偉い人が来るんだ
第20話 ホテルが売っていたものを、お客様は欲しがっていなかった十一室の宿泊予約が入った翌日、沙耶は嬉しさをいったん脇へ置くことにした。数字が動いたのは事実だった。しかし、一件うまくいっただけで「改善策は成功です」と言ってしまえば、それまで何度も新しい施策に振り回されてきたアステリアの現場と同じことを繰り返す。なぜ十一室増えたのか。本当に共有方法を変えたことが理由なのか。もともと宿泊する予定だった人が、たまたまアステリアを選んだだけではないのか。確かめなければならなかった。午前中、沙耶は森川から同窓会幹事とのやり取りを見せてもらった。もちろん個人情報に触れない範囲だが、宿泊案内を送ったあとの反応は分かる。「最初は五室くらいって話だったんですよね?」沙耶が尋ねると、森川は頷いた。「幹事さんが把握してたのが五室です。でも案内を参加者全員に回してくれて、それを見た人から個別に連絡が来ました」「何が決め手だったか聞きました?」「二人だけですけど。片方は『宴会終わってそのまま部屋に上がれるなら楽だから』って。もう一人は『朝みんなで食べられるならこっちでいい』って」「料金は?」「安いとは言ってなかったです。駅前より少し高いですし」それは沙耶にとって重要だった。安くしたから取れた十一室ではない。利便性が伝わったから選ばれた可能性がある。「宴会会場と宿泊場所が同じこと自体に価値があるんですね」「まあ、飲む人には大きいでしょうね。駅前まで移動しなくて済むし」「でも、それって今まで積極的に案内してなかった?」森川が苦笑した。「聞かれたら答えてました」「聞かれたら」「はい」客が知らなければ、存在しないのと同じだった。沙耶はノートへ書き込む。『利便性はある。伝えていない。』それだけなら広告の問題にも見える。だが、







